人生①
いきなりですが、今までの人生を振り返ってみようと思います。
平成4年2月11日、私は大阪の豊中市で生まれました。
私の「絵里香」という名前は父がつけたものらしく、母が命名していたらなんと「杏」になっていたようです。
幼稚園の頃の記憶で色濃く残っているものといえば、「青空給食」というみんなで外に出て給食を食べる行事。
幼稚園を出ていつものおともだちと高い空の下で食べる給食は特別なもので、非日常感を味わったのを覚えています。
小学校に上がり、ピカピカのランドセルを背負って通学するようになりました。
後でお話ししようと思うのですが、このピカピカのランドセル、なんと3年という短い命でした。
まずは小学校上がりたての頃のお話しから。
始めに私が戸惑ったのは「給食」です。
幼稚園の頃の給食といえば、無理なものは無理に食べなくてもいいという教育方針で、かなりの偏食だった私はいつも友達におすそ分けするか、「ごめんなさい」して残していました。
ところが小学校は違いました。
食べきれないと、掃除の時間まで食べさせられる。
みんなが机を教室の後ろに寄せて掃除をする中、私は飲み込めないコッペパンをもしゃもしゃとひたすらに食べ続けていました。
それはもう拷問のような時間で、涙目になりながら先生に許しを請うのですが聞き入れてもらえず。
私はこの給食の時間(とその他諸々)のせいで、小学生にして10円ハゲができてしまいました。
それくらい給食が嫌で嫌で仕方ありませんでした。円形脱毛症になったのは後にも先にもこの時だけです。
これだけ給食嫌いのくせに体は大きいほうで、よく友達をおんぶして遊んでいました。
その時にすごく仲良くしていたのは「りこ」という友達でした。
りこは私の下校の道中にある一軒家に住んでいて、いつも一緒に帰っていました。
りこの家についてからは、りこが自転車に乗り換え、私のランドセルを自転車の前かごに乗せ、そして2人乗りをするのかと思いきや何故か私はいつもりこが疾走する自転車の横を必死に走っていました。
今思うとりこは何であの時私を後ろに乗せてくれなかったのだろう……なかなかハードなトレーニングだった記憶が蘇ってきます。
そしてその時事件は起こるのです。
なんと、りこの自転車の前かごに積んでいた私のランドセルが落下!
しかも運悪く肩紐がハンドルかどこかに引っかかり、私のピカピカのランドセルは自転車に引きずられ見るも無残な姿に……。
悲しかったです。
私の、人とは違う色(ローズピンク)のピカピカのランドセル。
まだ、3年しか使っていない私の分身。
次の日から私のかばんは某サンリオキャラクターの、緑のシックなチェックが入ったリュックに激変しました。
そんな小学生の私、図書室に通うのが大好きでした。
学校の休み時間は外で遊び、放課後になると図書室に入り浸っていました。
私の心を最初につかんだ本、それは「伝記」でした。
「人の人生を1冊にまとめるなんてすごい!」その頃の私はそう思っていました。
「ヘレンケラー」や「マザーテレサ」などの外国人の伝記が特に好きで、同じ人物の伝記を何度も読みました。
あとは、オカルト話が好きだったので、「学校の怪談集」のようなものもたくさん読みましたし、図書室の本に飽きたら近くの図書館に行ってまた別の本を読み漁っていました。
漫画と出会ったのもこの頃で、小学生にしてはなかなかコアな漫画を読んでいました。
「Y氏の隣人」の奇妙さは今思い出してもグッとくるものがあります。
こんな小学生だったおかげで私は超が付くほどのド近眼になりました。
今は乱視も入って、裸眼は0.02ほどの視力しかありません。
そして時は流れ、私も中学生になりました。
偏食は変わらず、そしてリュックもさすがにサンリオではないにしろ健在でした。
そして中学二年生の頃、私は今でも大好きなアーティスト「BUMP OF CHICKEN」に出会いました。
それまでの私が聴く音楽といえば、これまた小学生にしては渋めのアーティストで「福山雅治」「SOPHIA」「B´z」。
どれも親の影響などではなくどこからか聴いた音楽をいいと思い、調べ、父にリクエストしてCDにしてもらっていました。
そんな私がBUMP OF CHICKEN(以下、BUMP)を知るきっかけになったのは体育祭の体操のときでした。
そのスピーカーから聴こえてきたのはBUMPの「プラネタリウム」でした。
なんて素敵な音楽なんだ!声なんだ!と興奮してすぐにCDを手に入れました。
この頃から私はズブズブの音楽好き・BUMP好きになりました。
BUMPの魅力を語りたいのは山々なのですが、書き出すと止まらない自信があるので割愛させていただきます。
人生②
高校に入ると、当たり前のことですがいろんな中学からいろんな人たちが集まってきました。
しかも私の通っていた高校は総合学科なのでより個性的な人たちが集まったのかもしれません。
私が何故、総合学科の学校を選んだのかというと、単に勉強(特に数学)が嫌いだったからです。
1年生のカリキュラムは9割方決められていて、2年生になるとそれは半分にまで減り、3年生になるとほぼすべての教科を自分で決めることができます。
私はとにかく勉強がしたくなかったので、ギター、油絵、陶芸など芸術分野に特化した教科ばかり選択していました。
心理学やディベート演習などの授業も受けていましたが、どれも自分にとってはすごく楽しいものでした。
お話を読む、文字を書くのは小学生の頃から好きで得意だったので、現国や古典の授業も進んで受けるようにしました。
総合学科は、私のような勉強をしたくない生徒にとってはこの上なく幸せな学校であったと思います。
私は高校生の時、はじめてアルバイトを始めることになります。
部活は軽音楽部に所属していたのですが、そこまでかっちり決められた練習はなかったので、アルバイトに精を出していました。
私が最初にしたアルバイトは地元のコンビニでした。
土地柄的なものもあって、そのコンビニに来る人たちはだいたいいつも決まっていました。
そこがその頃の私にとってはとてもありがたく、そしてどのお客様も優しくしてくださった記憶があります。
接客業を経験した私は、掛け持ちでアルバイトをしよう!という気になりました。
そして次に選んだアルバイト先は、高校生にしては異例のアパレル店でした。
アパレル店といっても地元の商店街にあるお店だったのでそこまでイケイケ・バリバリな感じはなかったものの、面接に制服で行った私をよく採用してくれたなぁと今でも思います。
そこでは「接客」の深さを叩き込まれることになります。
商店街の一角のお店とはいえ、天王寺や京橋にもチェーン展開しているアパレル店。
それまでの私が使う「敬語」がどれだけ甘いものだったのかを思い知らされます。
そして初めて経験する「立ちながら服を畳む」ということ。
これは基本中の基本ですが、慣れるまでに時間がかかりました。
業務に慣れてくると、ミシンを教わるようになります。
ミシンは長らく触っていなかったので、糸のかけかたからすべて教わりました。
ここで教わったことはすごく多かったので、閉店するまでの3年半で自分が書き溜めたメモ帳はすごい量になっていました。
社内販促も頻繁に行われ、負けん気が強かった私は何とかランキングに入ってやる!と意気込んで熱心に販促物を販売していたので、いつでも上位に入っていました。
目に見える成果は私をやる気にさせてくれましたし、名前が載った時のあのウキウキ感は今でも忘れずに心のなかにあります。
コンビニの業務形態が変わり、店が変わることになったのでコンビニは2年で辞め、代わりに居酒屋のアルバイトを始めました。
ここでもかなりのことを教わりました。
アパレル店とはまた違う「接客」の形。
私は最初こそ戸惑いましたが、それにもだんだんと慣れていきました。
ここで学んだ接客とは、「かたくなりすぎないこと」。
お酒を飲んでいるお客様はかなりいい気持ちになっていて、ふだんとは違う顔を見せる方も多いです。
そんなお客様にすました顔でキリッと接客するよりも、同じようにゲラゲラ笑い、相槌を打ち、楽しい話に乗ってあげる。
その方がお客様も喜んでくれるし、これもひとつの接客の形なのだと知ることができました。
そして学校では決して教わらないことも学びました。
瓶ビールをつぐときはラベルを上にする、乾杯するとき目上の人のグラスより自分のグラスを上に持っていってはならない……ほかにもいろいろなことを教わりました。
人に恵まれていたので楽しく2年半働くことができました。
人生③
仕事の話から少し学生生活の話へ戻りますが、この頃に高校を卒業します。
私が選んだ道は大学へ進学せず、自分の好きなことをやるということでした。
音楽が好きで、音楽で食べていきたい!そう思い、フリーターをしながらボイストレーニングに通っていました。
バンドもいくつか組みましたし、ライブもよくしました。
「好き」という気持ちだけで走り続けていたのですが、レコーディングをして自分の歌を聴き、ライブの映像を見たりしているうちに「私の声は歌うたいの声ではないのではないか」と思うようになりました。
それでも歌うことは好きだったし、下手の横好きでもいいじゃないか!と開き直ってライブをしていましたが、私にはもうひとつ欠点がありました。
それは極度のあがり症なこと。何度もステージに立つうちに慣れるのではないかと思っていましたがそうはいかず。
だんだんとライブをする数も減っていきました。
相当悩んだ末にボイストレーニングを辞めることにした私は、この頃あたりにレコード屋でのアルバイトを始めることになります。
当たり前といえば当たり前なのですが、そこは音楽好きの集まる職場でした。
そこではまずレジ係を担当した後、MOVIE/ASIA/MAGというジャンルに異動になりました。
その中でも私はMAG(マガジン)を担当していたのですが、このジャンルのいいところは浅く広くいろいろなジャンルの仕事ができるところでした。
J-POPと比べて入荷数も少ないジャンルでしたので、一通り自分の作業が終わるといろいろなジャンルの仕事を手伝っていました。
ブースごとにお客様からの問い合わせの内容も変わってきますし、代わり映えのある毎日でしたので楽しく、そしてやりがいの感じられる仕事でした。
そして特に印象に残っていることがあります。
それは、あるアーティストの新譜の展開(ポップ作りなど、そのアーティストの商品を売るための販促物を作ること)を任されていた時の事です。
みんなが驚く超大作を作ろうと意気込んだ私は、何週間も前から制作に取り掛かり、思った以上のものができました。
スタッフからもお客様からもいい評価をいただき、それだけでも十分嬉しいのにこの話には続きがあります。
その新譜の発売週に、なんとアーティストご本人が来店したのです。
そして私が作った展開を見て、絶賛してくださったのです!
周りの反応だけでも十分嬉しかったのに、思わぬサプライズでした。
しっかりとお話もさせていただいて、この上ない幸福感を味わうことができました。
すごく貴重な体験をさせていただけたことに感謝しています。
そこから東京での就職活動を始めようとしますが失敗。
私は現在在籍しているイベント会社で働くことになりました。
そこでは同世代の女の子が多かったのですぐに打ち解け、楽しく仕事をすることができました。
声も出さなければならないですし、トラックへの搬入作業などもあるので体力仕事です。
それでも仲間がいるおかげで、励ましあいながら頑張ることができました。
今まで経験した仕事で私が感じたことがあります。
それは「私自身も楽しむ」ということです。
仕事をしている以上は何か(商品やサービス)を提供していることに変わりはないのですが、機械のように淡々とこなしているだけではつまらないのです。
だから私は常に「楽しいこと」を考えながら仕事をしています。
「自分がされて嫌なことは人にしない」
この言葉は幼い頃から母に言われ続けた言葉です。
この言葉を言い換えるならば、「自分がされて嬉しいことを人にする」なのです。
仕事に限った話ではなく、人間関係を築く上でもこれは大事であると感じます。
発言する前に、行動を起こす前に一呼吸おいて、相手の立場になって考えてみる。
時には冷静になることを忘れ、発言・行動してしまうこともあるかもしれません。
でもこのことを頭の片隅にでも置いておけば後で振り返るきっかけになります。
小学生の時に道徳の授業で習った、当たり前のようなことを忘れている人が多いように感じます。
私は人の痛みに敏感でありたい。幼い頃からそういう精神を叩き込んでくれた母には感謝しています。
もし自分が母親になったときも自分の子供に同じことを教えてあげたいです。
気づけば書き出してから5000字を突破しました。
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。
興味のない話や、読みづらい部分もきっとあったと思います。
音楽をやっていたくらいなので語りたがりなのです。まだ書けと言われればいくらでも書けます。
今回は「今までの人生」をテーマに書き進めていったので、これも私のひとつの「伝記」なのでしょう。
少し恥ずかしくなる気もしますがたまに読み返してみたいと思います。
夢中になって、楽しくここまで書くことができました。
こんな機会を与えてくださってありがとうございました。